昭和42年7月26日 朝の御理解
今朝からここの広前のお取次の場であります御結界が右と左になりました。皆さんも御承知のように、お広前の信心では右の方に御結界があるのが正当でございます。金光様がお取次下さるのは右のご結界、椛目時代の御結界の形が出来ました。
色々、机のお供えがくる。杖立のお供えがくる。もう御結界のいわば諸道具全部お供えがありましたときに、金光様にお伺いをさせて頂きましたら、左になさったら結構ですという御言葉を頂いて以来、御結界を、左におかげ頂いて同時にこれが又一つのまあ、言うならば私の御結界、私は御承知のように、左耳が全然聞こえません。ですから左。右の御結界に座ったんでは、みんなのお届けも聞くことが出来ません、というような状態でもございましたから、金光様はそのことを、お見通しであったかと思いますけれども、これはないわけではないです。
西六の明神様というて、金光様の、女のお弟子さんで、大変な御神徳を受けられた先生がおられました。高橋富枝という先生です。西六の明神様と申し上げました。その方は、天地の親神様が御結界、御結界の中での夫婦というふうにと仰られまして、右と左にいわゆる高橋富枝先生のところでは、御結界は左にと、現在でもやっぱりそういうわけですけれども、それと意味は違いましょうけれども、ここに左であった御結界のまあ一つ、由来というのはそんなわけでございまして、段々おかげを頂いてまいりましてから、正常というか、本当のことにならなければならないということだけの意味合いでもなく、これはもう椛目時代からの私の願いでもありゃ、又、神様の願いでもおありになったんですけれども、どうでも御結界を右と左にさせてもらう。参拝者が多くなれば多くなるほど、どうしてもそういうお取次の場が二つはなからねば、本当を言うたら三つあっても、いいようなもんです。ではそのなからなければ、非常にそのお取次を願う方達が混雑いたします。もう心臓の弱い人は、一番最後まで待っとかんにゃならんということになる。ね心臓の強い人は、まあだれが参りよろうがさっさと前さん行ってからお届けするという人もあります。
けどもここに一つ思うことはですね、私は今まで左の御結界で何を稽古させて下さったかというと、本当言うたらお広前、十分でも、二十分でも、いや三十分でも、ゆっくりおかげが頂けると、皆さんの働く時間がなくなるということは、問題じゃないんですよ。ただしお勤めに出るとか、特別時間をきってとかいったような場合は、これは困ります。ね、けどもそれでなかったら、出来るだけお広前をゆっくりするとかじゃ、ゆっくりさせてもらうことが有難いというようにです、なってこなければならん。
先月、合楽の婦人会の方達が、全員でここで話しておられます。夜の御祈念に参って見えてからです、とにかく、あのここにお参りさせて頂いたら、さあ御祈念がすんだから、お届けがすんだから、、すっと、もう帰るのが惜しいような気がする。言ってみればやっぱり、ここに居ってこうお話の一つも聞いたり、頂きたいと、いったような気が致しますと、いうようなことを言うておられましたが、そういう一つの憧念心とでも申しましょうかね、神様に対するところの憧れの念というか、自分の心のふるさとであるところの、お広前に対するところの、もう帰りよんなっとといったようなものではなくてです、そういう、私は一つの情感というものがお広前には通うてこなければ、おかげにならないと思うんです。
そういう意味での、あの北野の堤さんなんか清さんなんかね、もうお父さんが総代さんでああやってお届けされるんですから、自分も一緒に後ろからお届けされても結構なわけなんですけれども、やっぱり自分の順序をちゃんと待っておられる。最後まで待っておられてから、しかもその待っておられるのにです、アア待ち長かかといったような気が一つもせんのです。あちら、こちらから見とったら、もうゆっくりして居られるというのが有難い。
もうここで次々とお取次頂いて、まあ長々とお取次をなさる方があります。もうこれは絶対、私がお取次さして頂くのにですね。それだけのことを、お取次なさらなければ、その方も出来ん、こちらも困る。だからむしろこちらから引き立つようにしてお届けをなさっておられるんですよ。皆さん。あるばってん、・・・?お届けしてからと、いったようなものではないです。
お届けというものは、そうなからなければ嘘です。例えて言うなら、昨日一日だけの、一日の、あれもおかげであった。これもおかげであった。ああいう御繰合せも頂いたということを、逐一お届けして、御礼申し上げなければおられんのです。本当は、ね。・・?お横着に、自分だけが長々その独占する、占領するといったような考え方は、勿論いけませんですけれども、そんな事なんかひとっつん頓着なさることは、いらないですね。それで持ち長かなら、もう帰ったらいいです。
もう第一がです、私が皆さん、皆さん本位ならです、私が十分間、二十分間、大祓と、天津祝詞を奏上するだけなら、十五分もかかればしまええるです。もう六時、言うならば六時半には、もうお取次開始が、もう楽に出来るです。もう六時には、皆帰って仕舞うてくらいに出来てもいいんですけれども、問題は皆さんおかげを受けなければならんでしょうが。便利や務めではないでしょうがね、おかげを受けるために。
例えば甘木の初代なんかは、あちらは、ご神米を必ず下げられるですね。あちらには、別な、その合い部屋ではないですけれども、別な、一つの形のがあった。そこんとこには、大きな玉串案が置いてあって、そこには山と積みなされておるご神米が、赤、青色々さまざまな包んでですね、それこそ見事でした。積んである。それから朝御祈念をなさる時にですね、お届けしてから、お届けを待ちきれない人がそこにおいて皆帰る。お届けして、そすとご神米がそこに下がって、又次々に参ったときにそれを頂くんです。ですからおかげをうけるのに、お初穂をお供えなさるとですね、親先生はそれを、そのちゃっとこう自分の手に持ってですね、お話がすむまでは、ご神米を下げられなかったということです。家族がご神米を頂いて帰らんにゃならん、けれど先生が握って放されませんもんですから、結局、その間居って、長い長い、いわば御理解を頂かんわけにゃいかん。そしておかげを頂かしょうというのが親先生の願いであったことがわかります。ここでもそうなんですよ。
ハァ、まあ朝の御祈念に三十分も御理解があるところは、先ずここだけですよ。それは、私簡単なんですよ。教典がありますから、教典を毎日、御教えを一ヵ条づづ読んでね、それでおしまいというような所はたくさんあります。教会で、いやむしろそれの方が多いですね。けれども、私はここに参ってくる一人一人がどうでもおかげを受けてもらわにゃならん。信心が分かってもらわにゃならんと思うから、私はやっぱり、こうやって私は、もう神様から頂いておることをお伝えしたいことだけはお伝えしなければ、もう帰さないというようなふうがございますね。
だからあの、また右にも一つ御結界が設けられたというわけでもございません。けれどもやっぱり、いろんな意味があると思うんです。毎日のお届けが三百人あったら、あちらへ御結界をもう一つ作らせて頂くというのが願いでございました。おかげを頂いて、昨日はもう三百人本当にちょっと幾人かきれておるというおかげを頂き、皆さんが夕べ御祈念を終わって帰られたのが、もう十時、十一時頃からでした。急にご神夢、あの神様からお知らせを頂いたことがございましたから、あの右の御結界に作る。若先生、久富先生と繁雄さんと末永さん、私と五人で、もうその積もりでございますから、ちゃんとあの御結界の準備は出来ておったんです。もう御簾なんか新しくあの作り直してあった。ですから、もうすぐまあいわば出来たわけでございますけれども、いわゆる歴史的一つの瞬間だねと言うてから、まあ夕べ話したことです。
御結界の準備が完了しましてから、私を先頭に、五人の方と一緒にお礼をさせて頂いてから、本当に正常な御結界のおかげを頂いたことをお礼申させて頂いておりましたら、現代の四代様、四代様が毅然としてあの御結界奉仕を下さっておる姿を拝みました。ですから今まで椛目のここで、椛目から合楽にかけてのことを、そういうことを教えたいというのが、ここには、長々と待たなければ、朝のお届けが出来ないというようなことはね、もう堤清さんじゃないけれどもね、そんな事なんか十分、二十分、三十分は問題じゃないんだと、神様のことに時間を使うということが有難いことなんだと思い込ませて頂けれる信心の稽古をさせて下さったんだと思います。
これからたくさん、またお取次を願われる方達が多くならなければなりませんね。ためには、やはり二つ三つでも御結界が出来ることは有難いことです。そういう意味ですね。丁度、お届け帳も、ここで使うのが一冊と、あちらで使う神様のご都合ちゃ、だぁれもそれを言わんけれどもね、あの百枚、百帖綴りのお届け帳がお供えきておりました。するわけはないと主とったところが、お供えがきとりました。ご都合だな、何かからかにまで神様がやはりご準備下さるんだなぁと、私は思うて、昨日、早速若先生があちらへ、もういつからでもお届けできるように、御理解が終わったら若先生が、又は、他の先生方、修行生の方達があちらで奉仕することになります、今日から。私は午前中、こちらへ奉仕するわけ。こう区別されたわけ。いわゆる右の御結界、左の御結界というのは、そういう様ないろんな意味合いがあってのことでございますから、どうでも皆さん、あちらでもお届け頂いて、どうぞお急ぎの方は、そうしてお帰りになられることも結構でございます。
昨日、私ここ二、三日私、目がこんなに悪うございますもんですから、休んでおると一番いいんです。ちょっと起きてこうしておりますと、痛みだすです。ですから昨日、お昼から休ませて頂いて、起きがけに御夢を頂いておるんです。それで私はどうでも、これは椛目全体、合楽全体の者が、ここんところに、こういうような、結局信心をというのは、結局自分自身を本当に分かるという信心。どこまでも実意丁寧神信心。謙虚な信心が出来なければならんということの、丁度、外はお湿りがあったようです。教会は、ここではないようですけれども、私がおるし、また私が夢の中に表れてきなさるともここのご信者さんなんです。赤ちゃんをおんぶしてです一生懸命、雨が降っておるのに、何か外で御用があっとりました。そこにやっぱり、ここの信者さんで、熱心な信心しておられる方が、幼稚園の子供と思われるくらいの子供何人か連れてお導きして参って見えたんです。
そしたら、御用しておった人が言うことがです。ハァこんなこまかか子供を連れてきてから、こん雨降り、お広前を汚す、なんとかかんとか言うて、その言われたもんですから、もうびっくりしてから、その上にも上がりきれんで帰ろうとしておられるのを、私がこちらから見てから、まあ待ちなさい、待ちなさい。せっかくお参りしてきたんだから、何か頂いて帰らなけゃねと言うてから、その子供達何人に、私が梨のような果物をいくつか持たしてやりました。そしたら外からこうやって御礼をしてからです帰っておったところが、また引き返してきたんですね。そしてからやっぱり折角、ばって頂きましたばってんいりません、ちゅうてから果物を返しにきた御夢でした。
これを思うてみますとですね、例えば赤ん坊をおんぶしてとか言うことは、様々なめぐりを引っかろうてということだと思いました。一生懸命、ここで信心が出来れる。御用も出来ておられる方なんです。信心のいわば幼稚園、いわば初めての方達がですお参りしてきたのにです、それをいかにも煩わしそうにですかね、困ったことのようにです、ふうトクの言うもんですから、いうもんだからいっぺんでびっくりして、けどもお参りして頂いてから最後、はあ、なるほど金光様ちゃ有難いもんだなぁと言ったような何かを、少しぐらいは頂いて帰った。私が持たして帰した。ところがそれもいらんと言うて、返しにくるといったような結果になったんです。
次には、やっぱりその方が赤ちゃんをおんぶしてから、ここのお広前、このお広前の長い廊下がございますでしょうが、長い廊下の入り口のところで、、廊下で草を取っておられると言う感じ、傘をさしながら、そこへその見かけないいわば、新しいご信者さんといったような方がでねす、あのあちら側の入り口から入ってからあの丁度、あの板場さんが履きますね、こんな高い高いぼくりを、高ぼくりを履いてお広前に上がってきているんですよ。そしたらその傘をさして、赤ん坊を背負いながら草を取っておるというその人がです、お前分からんかここは廊下ぞ、そんなの上がってくるものがあるもんか、そのおごりなさりよる。そして私が横から見ながら自分な傘さしながらと私が思いよるとです。自分は廊下で傘をさしながら草を取っておるという感じ、外の者が高ぼくり履いてきたから、お前高ぼっくり履いてくるもんがあるもんかというて、その・・?を言いよる。私がそれを見てから、自分は傘どん家の中でさしてからといいよるような御夢であった。
傘といや、まあ安心と仰るから有難いんだけれども、ここにおる間、ここにおかげを頂いておるからこそ、何とはなしに安心のおかげを頂いとるという感じ、これはですね、私がお取次さして頂いて皆です。初めて参った人なんかは、必ず見栄を持っとりますよ。一つの難儀のことをお願い致しますとですね、もうそれだけしかお願いすることなかごとあるふうに言います。他のことは何でもおかげを頂いとるように言うんですね。実際そのことなかじゃろうが、まあだもっと、もっと深刻な問題があるとでしょうがと、言うて段々お話してくるたんびに、あれも難儀これも難儀という、一切の難儀を赤裸々にだすようになりますけれども、始めの間は、やはり金も足らん、人間関係もゴチャゴチャ、病気もしとるというと、まあ恥こしたる気がするんじゃないでしょうかね。見栄があるんです。自分を少しでも高く、高い者に見せるという気持ちが必ずあるですね。 人間はやっぱりその見栄と、自惚れのない者はないと言うくらいですから、その見栄も、何もかなぐり捨てて、赤裸々にお取次を頂きお願いするようになったら、もう一人前ですから、信心しておったちゃっ、秘密主義。こげいなことがお取次出来んという人は、それがあるのですから、ね、又、その人から思うんですよ。自分自身まあだめぐりを引っかろうて、自分も家の中で傘をさしておるような状態でありながら、人がただ高ぼくりを履いてきておるからと、人の足元ばかり見ている。そして、その人が腹をかいてから、もう又からこんぞとちゅうたるふうで、帰っていくところを頂くんですね。
先ず自分の姿を見る。先ず自分自身の信心を知れ。先ず自分が頂いておるおかげのことを、先ず見れ。ね、その人が幼稚園であれば幼稚園であるほど、始めての人であればあるほどね、まだ信心が若ければ若いほど、そこんところを教えるのじゃない。私はこういう風にして、そこんところをおかげ頂いてきた。さあさあどうぞと、例えばその人たちを屁うというか、その本当に手を引いて差し上げるというか、そういう親切ぎがさらさらないというようなことは、結局、自分自身が分からないからだと私は思うたです。
ね、信心はもっと、もっと合楽全体の人がです自分自身を、本当にも少し見極めなければいけないです。私はそれを御夢の中で頂いてからですね、本当にあれが御夢の中でだれだれさんが出てきたけれど、あれは私自身の姿でもあろうかと自分でも思うてみる。けれどもですね只今申しますように、例えば、御結界が二つになるということはです、それだけお広前が繁盛するということになります。 繁盛するということになれば、必ず新しい人達、幼稚園の人達が参って参ります。いうなら皆さんは、先輩、先達であるね。とてもあの人達についていけない、とてもあの人、あげいな、あんげな人からあげいに喧しく言わればごとあるなら、私はもう参らんと言うようなことじゃあっちゃならんでしょうが。
ね、誰か偉い人おりますか。椛目に、誰か合楽に、あの人は素晴らしい信心といわれるような信心がおりますかね。お参りこそ十何年しておってもです、どれだけ、ここで信心を、の徳を、皆が磨いたか、積んだか、どれだけおかげを受けておるか。受けておらんでしょう。ハァあの人は信心が出来てござる、あの人の信心についていきたいというのは、第三者が言うのである。自分自身がそういう気持ちでありれる人は、一人だってあるはずはないのです。
ね、信心が言うならば、分かれば分かるほど、十何年間、椛目から合楽に通い続けた人がです、あればあるほどに本当に私のような者がめぐりの多い、いわゆる赤ん坊を引っかろうとる自分である自覚に立ってです、ね、人が助かることの為に精進しなければならない。奉仕しなければならないと私は思うね。
こうしておかげを頂いてから右と左に、御結界が出来たね。多くの人がこれからお取次を願わなければならない。もうそれはですね、一番始めに例えばお参りした時にです、本当にそれを心から親切にされたというようなことやらは、これは信心だけじゃないでしょうけれども、慣れぬ所にいって親切にされたくらい有難い、忘れないことはないですよ。もう一番に、始めに参って感じが悪かった。気分が悪かったね。なるほど参れば、何とはなしに、何か頂いてくるものあるばってんから、というて参らんならもうそれを返しにいったようなものなんです。
本当に、もういっぺんあげいなところならお参りしてみたい。お願いがある時には、もういっぺん、例えばお引き寄せ頂きたいと言うような、おかげを頂くためには、もうこの合楽のお広前に御縁を頂いておる信奉者の全部がです、その気にならんにゃならん。その気にならんにゃならんというて、形だけ親切するのでじゃない。自分自身が分からんにゃいけんということ。
ね、私は本当に、あの私はその話を昨日、丁度頂いてからすぐでしたから、食事の時に、皆にそれを話したんです。今の話を、そしたら豊美がハァ、それはお父さん私でしょうとこう言うんです。それはあんたかも知れんよ。だから皆が私じゃろうと思うてです、そして例えば私どもの信心の、実意丁寧神信心を、実意丁寧を欠いておる自分達というものを、本当に見極めさせて頂いて、もう本当にもう頭が下がるごとある。初めて参って来た人でも、信心しておる者の姿というものは、本当にああなけらんといった様なです。言うなら手本になるように信心を、いよいよ頂いていって始めて、右と左の御結界が繁盛のおかげになってくるとじゃないかと、こう思うです。
そういう様なわけですから皆さんも協力するといったようなもんではないですけれどもですね。皆さんも本当に、その気で人が助かっていくことに奉仕させて頂くおかげを頂きたいと思うですね。 どうぞ。